古書店訪問
第4回 大屋書房


大屋書房店主 纐纈公夫氏インタビュー

●創業は明治15年。祖父は出版も手がけた粋人

 うちは創業が明治15年、私で3代目になります。最初は店を持たなかったんですが、場所としては浅草で始めて、次に下谷、明治27、8年頃に今の専修大学前の今川小路に店を出しました。その後、書泉と一心堂があるあたりに移って、震災後に現在の場所にきて、それからずっとここです。

 祖父は出版もしてまして、その頃は春草堂とか、いくつかの名前を使ってました。祖父はそもそもは日本橋にあった大和屋という本屋に勤めていて、そこが廃業するときに独立した人です。

 祖父は、中座という本の売り捌き人としてずいぶん活躍したようです。「大屋に頼むと本がさばける」という評判があったそうで、取次の栗田さんの先代とか、誠文堂新光社の創業者の小川菊松さんとかが若い頃に、祖父のところに出入りしていたという話を聞いたことがあります。

 祖父ははじめ出版もやってまして、大正2年に出版した本に吉井勇が編纂した「ねむりぐさ」というのがあります。これはまだ纐纈房太郎の個人の名前で出してる本ですが、本郷に凡骨という彫師がいて、しょっちゅう祖父と酒を酌み交わしていたらしいんですが、そこへ吉井勇がやってきて、本を出版するかということになったようです。石井柏亭さんをはじめとして、いろいろな人の挿絵を凡骨さんが頼んで描いてもらって、それを編纂して、吉井君、出してくれということで作った本でしょう。吉井の序文に「うっかり引き受けてしまった」というようなことが書いてあります。伊上凡骨という人は伊藤晴雨らとも交友があった、変わった男だという評判があった人物らしいです。

 祖父の出版したなかに「映画大観」という映画の本があって、その奥付の住所が大阪になっております。父も大阪に集金に行かされたことがあると言ってたことがありましたが、どういう事情だったのか、父もはっきりしたことを言わなかったので、よくは分からないままになっているんですが。

 関東大震災のときは、店も焼けて、本を箱車に乗せて逃げたという話を聞きました。戦災のときは、近所まで火がきたんですが、幸いにも風向きが変わってこの辺一帯は焼けずに済みました。

 「大屋書房」だから苗字が「大屋」だと思われるんですが、本名は「纐纈(こうけつ)」といいます。この苗字は非常に珍しいでしょう。国枝史郎さんの「纐纈城」という小説の新装版が出たときに私は10冊ほど買って、人にあげようかと思ったんですが、読んでみたらかなりすごい話だったんで、配るのをやめたことがあります(笑)。同業では「大屋さん」で通ってますから、「纐纈さん」という人はいませんね。

●外国人客が一番多い店

大屋書房は神保町の古書店の中でも、アメリカ人、ヨーロッパ人など外国からの来客者が一番多いところだと思います。

 一般的にいうと、外国人は広重や北斎のブルーを日本人以上に好んでいるようです。昔から美術書の印刷については、外国向けの場合は、そのターゲットの国の人に色の最終チェックをしてもらったほうがいいといわれてますが、これは日本人の黒い目と外国人の青い目の色の違いからきているんでしょうね。

 それから、湿気も影響しているようです。ヨーロッパで見たときには色があせているような気がした浮世絵が、日本で見るとそうでもなかったという経験があります。

 店の看板のところに北斎の富嶽三十六景の絵を出してありますが、あれは富士山が「日本の大きな屋根」だから「大屋」にふさわしいという思いもあって、そうしているんです。

●店頭販売を中心に

 父は「自分は店師だ、本は、お客さんに店にきて頂いて現物を見てもらったうえで売るんだ」という考えを持っていたんです。正直なところ、本が間に合わないくらい売れた時期でもあったんですが。

 私もそれを引き継いで、店売りを主体にずっとやってきまして、即売会にも若いときに何度か出品しただけで、あとは出品していません。

●「江戸」のイメージが見直しされて、追い風になった

 うちが今のような、江戸期のものや錦絵を扱い品目の主体にした店として完全にかたまったのは震災後で、父の代のことです。祖父は粋人というのか、趣味8割、実利2割くらいで仕事をしていた人で、好きなようにやっていたのが時代にうまくあったという形でしょうか。

 私が店に出だした昭和30年頃は、江戸期のものを扱っている店に入ってくるお客さんというのはかなり特殊な方でして、黙って棚を見ていて「これ、ください」というような人は九分九厘いませんでした。必ずいろいろなことを聞くんですよ。こちらは高校生くらいで店番しているわけですから、知識が乏しくて、何か聞かれても答えられないので、早くこのお客さん帰らないかな、なんて思ってました(笑)。

 その後、昭和30年代の終わりから40年代にかけて、お客さんの層が広がってきました。50年代になると世間の「江戸」というものへの見方が以前とはかなり変化してきて、日本人の現在のルーツが江戸にあるという考え方が浸透してきましたね。われわれにとってはありがたいことでした。

 バブル全盛のときに、竹下総理が「ふるさと創生プラン」といって、日本全国の各市町村に1億円をばらまいたという時期がありましたよね。私の推定では、その中の3パーセントくらいが古い資料を集めたり、あるいは資料館を作ったりということに当てられたのではないかという気がしています。

 そのときはまず予算ありきで、いついつまでに予算を使わなければならないということで、よくモノを見ていない人までが一時的に買いあさるような形になりました。それで古いものの価格の相場が狂ってしまって、それまでは気の利いたものが7、8万円とか12、3万円とかで買えたものが、30万円だ60万円だというような値がついてしまい、個人客がとても手が出ないような状況になって、それで個人客が一時離れてしまいました。

 その当時は、たとえば3巻ものの絵巻が1本で1000万円だ1500万円だという値段がついてました。土地などと同様に、現在はその当時の3分の1から5分の1くらいに値段が下がってますが、それでもモノが動きません。市区町村の税収がすっかり落ち込んでしまって、文化面にはまったく金が回らなくなっていますから。

 バブルの遺産で、建物があって中身がないという話はよく聞きますが、なかにはその逆もあって、いろいろといい資料を買ったのに、建物を作る段階でバブルが崩壊してしまって、資料だけがそのまま死蔵されてしまっているところもいくつかあります。

 お客さんの傾向としては、最近は若いお客さんが多くなってきています。作者では最近は芳年が注目されています。

 私が若い頃、お客さんで外国人が一人と日本人が一人、芳年を集中的に集めていた人がいまして、私も関心をもって見るようになったんですが、たしかにうまいと思いました。私自身も少し集めてみたことがありました。

 浮世絵の中で役者絵というひとつのジャンルがありますが、今の日本では歌舞伎が衰退してしまいましたから、売れるジャンルではありませんね。写楽でさえも買う人は少ないですから、マイナーな分野といってもいいでしょう。

 不思議なことなんですが、日本はこれだけ浮世絵が普及していて、持っている人も多いのに、浮世絵の国立の専門美術館がありませんね。これは外国人から見たら奇妙に見えるのではないかと思います。一時、リッカーや大田が美術館を作りましたが、それに続いて鎌倉に二階堂文庫というのが財団法人になる寸前までいったんですが、途中で立ち消えになってしまいました。私も国立の浮世絵美術館を造る手伝いをしようとずいぶん頑張った時期もあったんですが、今日でもまだ実現にいたっておりません。古地図の国立の資料館もしかりです。


●有限会社大屋書房
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