特集
第1回 宮武外骨「絵葉書類別大集成」の楽しみ


外骨が収集し分類した「絵葉書類別大集成」というアルバムコレクションは、初め て見た人はおそらく誰でも唖然としてしまうだろう、そういう編集作品である。

日頃見なれているもの、よく知っていると思っているものを、何か新しいもの、見なれていないもの、未知なるものに変形することをアートというのならば、宮武がこのアルバムの編集でおこなったのはまさしくアートというしかない作業である。 だが、絵葉書を並べるだけでアートができるのか? にわかには信じられない話である。たとえば女の顔をキャンバスに描くのは社会的にアートと公認された行為である。だからそれがどんなに下手くそに描かれていてもアートであることは疑われないですむ。

外骨がやったのは、たとえば女の顔が映った絵葉書を大量にアルバムに並べていくことだった。これは普通はアートとは考えられていない作業である。どんなに先入観にとらわれていない人でも、「絵葉書」と「アルバム」という先入観はあるから、その二つを使ってアートができるとは思っていない。だから、その二つを使ってアートが行われていることに気がついたときには唖然とするわけだ。

しかし一度この未知なる表現形式を受け入れて、へんてこなアルバムが繰り広げる世界に入りこんでしまうと、次々に展開する思いがけない絵葉書の組み合わせが面白くて仕方がなくなってくる。はっきりいってこのアルバムには中毒性があって、一度入り込むと、いつまでもアルバムの世界に浸っていたいと思うようになってくる。

こうやって外骨の編集の妙をじっくりと堪能しながら、ワンダーランドを探検しているうちに、また別の世界が開かれてくる。今度はそれらの絵葉書1枚1枚が語りかけてくる世界の面白さに目覚めてくるのである。

絵葉書の題材はまさに森羅万象。戦前の日本の風景や風物、日常生活の一こまなど、あらゆる断面が封じこめられている。テレビもラジオもなかった時代にあって 、絵葉書は画像を載せて発信するメディアとして、現代の写真週刊誌のような存在だったようだ。事件や災害の速報写真あり、人気女優のクローズアップあり、話題の人物や話題の場所の紹介ありで、ちょうど写真週刊誌のページをばら売りしているようなものと考えればイメージがつかめる。

素材としての絵葉書自体を楽しむ時間は大げさに言えば無限といってもいいくらい長い。なにしろ絵葉書の数は2万8000枚もあるのだ。1枚を1秒で見ていったとしても2万8000秒かかる計算になる。実際は思わず見とれてしまうものや、細部を拡大してためつすがめつして見ても飽きないものなどが少なくないから、全部を一通りみるだけでも相当の時間がかかるはずだ。

しかし、こんなことをいくら言って見ても、現物を知らない人にはほとんど意味を持たないだろうから、代表的なアルバムのページをサンプルとして、ともかく見ていただこう。

たとえば「並ぶ」というアルバム。

解説は無用と思うが、やはりどうしても一言いいたくなるのが、女性が踊っている列と軍隊が並んでいる列を隣り合わせにしているところや、人間の並んでいるのと魚が並んでいるもの、並木が並んでいるものなどを「同列に扱っている」個所だ。歌舞音曲の列と軍隊の列を同列に扱うのは、意表を突いていて、その手際の鮮やかさに唖然とはさせられるが、軍隊への「批判的視点」というくくりの中に入れてしまうことができないわけではなく、そういう「批判的視点」を感じると、その中には少なからず人間的な感情も感じることができる。

だが「魚と人間」とか「人間と植物」とかを並べているところになると、「批判」や「冷笑」などを感じることはできなくなり、「喜怒哀楽」すべての感情から離れてしまった人間が、ただ静かに人間の営みを眺めている、あるいは「観照している」、そういう不気味な感じが現れてくる。

もうひとつ、「笑う女」というアルバム。

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ただ笑っている女が続々と出てくるアルバムだが、見ているうちに「笑う」ということが何とも分けの分からない、不気味な、意味不明の行動に思えてくる。簡単な言葉で言えば「異化作用」なのだが、それを造形でやったり舞台でやったり文学でやったりしないで、つまり作品を作るという形でやらないで、ありあわせの絵葉書でやるというのが、誰にも考え付かないところだ。素材が平凡きわまりないものであればあるほど、その異化作用は効果的であり、印象は並外れたものとなる。これを一度見た後では、「女の笑い」について、見る前と同じように感じることはできなくなるといってもいいくらいだ。